家族海峡-8

「家族海峡」

第二章 ”日本の敗戦”

八 逃避行
羅津は少し落ち着き始めているというので、朝鮮人の知人等は戻って行った。夫は日本と関連した工場なども経営している。しかも妻は日本人なので、私たち二人はもう少し様子を見る方がいいと判断した。
義弟妹は利星が連れて町へ帰って行き、二人だけになってしまった。
私達は少し川下に引越した。そこもまた村の有力者の家だった。持って来た布団から新しい白のカバーを二枚外した。その家の人に夫のパジチョゴリ(ズボンと上着)を作ってもらい、残りの布で私のチマ・チョゴリ(スカートと上着)も頼んだ。
私は実母の着物をワンピースに仕立て直したのを着ていた。焦げ茶の絣模様が入った黄色の地で、田舎では目立ち過ぎたその数日前に二人で、そこから四、五百メートルくらい更に山の奥に入ってみた。そこにも何軒か家がまばらに建っていた。炭焼きの老人夫婦が住んでいると聞き、しばらく一緒に住まわせてもらいたいと訪ねたのだ。
ウラジオストックにいたというその夫婦は親切に迎えてくれた。ことにおじいさんは優しそうで、その夜はその家に泊まった。夜明けにはまだ間のある朝三時頃、人の起きる気配がした。ほどなく、夫婦でどこかへ出かけて行った。
「何をしに行ったのだろう」と不思議に思いながら、また夢路についた。
どのくらい眠っただろう、外から声がする。
「朝ご飯が出来ましたよ」
こんな山の中なのに、山盛りのお餅を準備してくれたのだ。つき立てでまだ湯気が上がっている。餅好きの夫は大喜びだ。私たちの嬉しそうな顔とは裏腹に、おじいさんは言い出しにくそうに切り出した。
「我々はあなたたちにいてもらってもいいと思っている。しかし、昨晩、この小さな山の村人たちに『日本人を匿って我々が死ぬようになったらどうする。出て行って貰ってくれ』と迫られた。妊娠もしているのにすまないが他を探して欲しい」
すまなさそうな顔だった。仕方なく山を降りることにした。
おじいさんはその餅をアルミ鍋に一杯入れると、若者を呼んで私たちの小さな荷物と共に下まで運ぶよう指示してくれた。また村の有力者の家に戻ると、チマ・チョゴリが出来たからと持ち出して来てくれた。その時、遠くからトラックの音が聞こえ始めた。音はだんだん近くなる。
「ロシアの軍人に違いない。どうしよう!」
夫はあわててパジをはき、チョゴリを羽織りながらそこの主人と表に飛び出した。トラックは既に家のすぐ表の道に止まっている。
「こうしてはいられない、私も着替えなくては」
急いでチマ・チョゴリを着ると台所に行った。
トラックは二台で、ロシア兵が二、三十人は乗っている。
全員鉄砲を手にして、大きな声で騒々しく喚いているが、何を言っているかさっぱり分からない。刑務所にいた囚人達を、兵隊として一番先に送り込んで来るのだと聞いていたので、恐怖が体中を突き抜ける。
私は手ぬぐいを被り、かまどの前にしゃがみ込んで様子を伺っていた。若い二人のロシア人が入ってきて、何か話しかけてきた。私はしゃべれないふりをして口をパクパクさせてみせた。顔は覗き込まれたが、それ以上何をするでもなく、口が利けないのを見て仲間の方へ戻っていった。
「あー、助かった」
思わずへなへなと力が抜けた。
まもなくトラックは二台そろって山の上の観測所の方へ向かって動き出した。夫が戻ってきたが、顔は土色であった。前々から日本関連の仕事をしている者を探しているという噂があったからだ。
「私達を捕まえに来たのに違いない、このすきに逃げよう。金があるように見せたら駄目だ。全部捨てよう」
二人の時計も叔父の形見の時計も、みんな放り出して裏庭から飛び出した。枯れ枝を寄せて作った垣根をかき分けて、逃げ出した。裏山は上がったり下がったりと起伏が激しい。道なき道を方向も定めず滅茶苦茶に走った。
途中でバーンと二発、大きな砲弾を発射する音が轟き、山中にこだました。
「我々を逃がしたから、家の主が撃たれたのだ」と夫がいう。
「私たちが何者だか主人も知らないわけだから、そうじゃないと思うけど」
「ともかく逃げよう、見つかったら殺されるぞ」と私の手を引っ張った。
足は草やら茨で引っかかれ、ところどころ血が流れていたが、気にする暇も無い。
「お腹の赤ちゃんは大丈夫かしら」
心配だったが仕方がない。それしか生きる道は無いと死に物狂いで走りに走った。遠くで、先ほど観測所に向けて出発したトラックが登っていく音がまた聞こえた。
「やはり、我々を探しているのだ」
悲壮感一杯の私たちに、天気も追い討ちをかけてきた。今まで晴れていた空に突然、黒雲が湧き出した。辺りが真っ暗になったと思うまもなく、まるで空が破れたかのように大粒の雨が降ってきた。隠れるところも無い。泥が跳ね上がるので大きな岩の上に二人で寄り添い、私のチマを広げて傘代わりに被った。スフの生地に、たちまち水が溜まって漏れてくるため、水を捨ててはまた被ることを繰り返した。土砂降りのひどい雨で小一時間ほども降り続いた。腹帯までビショビショになった。
また歩き始めたが、夕方になると風も出てきた。着ているチョゴリは薄い上、濡れ鼠なので寒くてたまらない。木がこんもり茂っている所に出たので下を覗くと、私たちがよく遊んだ谷川の上流に出たらしい。夕立の後なので水量も増え、ゴウゴウと音を立てて流れていた。二人で体をくっつけて温めあいながら、これからどうしようかと話し合っていると、遠くでトラックが二台降りて行く音がした。 その後は鳥もねぐらに帰ったのか、さえずり声もしない。聞こえるのは風の音だけだ。山は全くの静寂に覆われた。寒いし、お腹も空いてきた。
「このままここにいても死ぬだけだろう。それならいっそ降りていこう」
捕まるのを覚悟で、先ほど逃げだした家に向かって震えながら夜道を歩き始めた。家に到着すると、まず夫だけ先に訪ねた。しばらくするとその家の人たちが出てきた。夫も私に手招きする。
「これで助かるのだ」という思いがやっと湧いてきた。温かいご飯をご馳走になり、濡れたチョゴリも着替えさせてくれた。オンドルの部屋で厚い人情に感謝し、私たちは生き返った。その家の主たちには何も起こっていなかった。威嚇発砲だったのは何よりも幸いだった。しかし、私達が逃げる時に捨てていった時計やお金は「知らない」と言って、何一つ返してはくれなかった。

「ハナ(一)、トゥル(二)、セッ(三)、ネッ(四)、タソッ(五)……」
羅津に戻る途中に検問所があって、三十まで韓国語で数えさせるらしい。私はその家で世話になりながら、必死に覚えようとした。
「どうして『ハナ』が『一』なのかしら、不思議ね」
考えても少しも分からないので、とにかく丸暗記するしか仕方がなかった。何回繰り返しても、一度引っかかると、そこで止まってしまう。言えなかったらどうしようと悩んだ。後に検問所を通った時はどきどきしたが、「数えてみろ」とも言われずほっとした。
しばらくこの家に世話になったが、山の裾野に十五、六軒というその村も私達の存在がどうしても不都合らしく、再び追い出された。仕方なくまた炭焼きの老夫婦の家を訪ねて、小一時間かけて登った。北国の空はよく澄み渡っていた。大きな木は無かったが、緑が生い茂り空気は澄んで最高だった。
「今度はいてもいいよ」
おじいさんおばあさんは、快く受け入れてくれた。ありがたかった。
夫と共に起き、食べるのも、散歩するのもいつも一緒。夫婦だけで暮らしたことの無かった私にとって、初めて新婚生活らしい気分に浸れた嬉しい日々だった。夫は木に上って、「アリラン」をよく歌った。時には二人で一緒に歌ったりして日がな一日、のんびり遊びまわった。
おばあさんが何かを縫うのを見て、私が日本式に縫って仕上げた。
「あれま、ずいぶん早く綺麗にできるね。こんな風に縫えるなんて知らなかった。繕いや縫い物が溜まっているのだけど」と、つくろい物などをたくさん持ち出してきた。手伝うと、大変喜んでくれた。 私は女子高を卒業した後、東京女子専門学校の家庭科一年コースに進み、主に洋裁、和裁などを学んだ。教員資格は持っていなかったが、母校の調布高女で家庭科教師の代行として四カ月ほど教えたこともある。当時すでに袴をはく先生はいなかったが、私は袴姿で教壇に立ち、生徒からも慕われた。特に洋裁が好きだったので縫い物はお手のものだった。
その間も夫の心は、京城の会社のことで一杯だったようだ。しかし、慌ててもどうにもならなかった。夫の人生の中でも、あんなに遊んで過ごした日々はなかったことだろう。一週間もしてもそんな暮らしが続き、退屈し始めた頃、利星がやって来た。
「羅津も大丈夫と思うから迎えに来た」
名残を惜しむ老夫婦に心から感謝して別れの挨拶をした。おじいさんは最後まで親切で、荷物をチゲ(しょいこ)に積んで下の道まで運んでくれた。このおじいさんには一つ忘れられないことがある。手の指が六本あるのだ。親指の横からもう一本突き出ている。
「妊娠しているのに、子どもに変な影響がなければいいけれど」
最初見た時から、そんな事にこだわるなんてバカだと思いつつも気になった。
後に子どもが生まれた時、つい指の数を数えてしまった。ごめんなさい、優しい人だったのに。
後年、利星の長男は指が六本で生まれた。何の因果だろうか……。

>> 次へ

<家族海峡 目次>
はじめに

第1章 運命の人
1 出会い
2 結婚
3 朝鮮の地
4 大家族
5 満州旅行
6 妊娠と叔父の召集

第2章 日本の敗戦
7 ソ連侵攻
8 逃避行
9 夫の生い立ち
10 38度線
家族海峡のご購入について