「家族海峡」
第一章 ”第1章 運命の人”
四 大家族
母親が亡くなって女手の無い家に、亡父の故郷、咸鏡南道の鏡城から、夫の伯母が来ていて面倒をみていた。無口だが実直な人で、一日中黙々と仕事をしていた。
「日本の何も知らないお嫁さんが、こんな遠くまで来て一体どうやっていくのだろう」と、きっと心配していたに違いない。
伯母が準備してくれる食事の膳に、赤い色の物がいつも並んでいる。
「あんなきれいな色の食べ物なんて、見たこと無いわ。一体、どんな味かしら」
気になって仕方がない。二日目の食事の時、それをそうっと口に入れて噛むと
「辛い!」
今まで経験したことの無い辛さだ。皆の前で吐き出すわけにもいかず、思わず飲み込んだら涙が出た。キムチだった。
後になって利星が笑いながら言った。
「あんな辛いものを食べて大丈夫かなって、随分心配したよ。義姉さんが目を白黒させてたのが、おかしくもあったけどね」
大好きな漬物を食べられずに悲しかったが、そのうち水で洗って食べることを覚えた。
今では日本人でもキムチを知らない人はいないほどだが、その時が私とキムチとの初めての出会いだった。何十年か後にソウルに住むようになると、私もキムチを漬けるようになり、韓国人からも褒められるほど上達した。
早くこちらの生活に慣れようと、人々のやり方を観察して真似るよう努力した。
ある日、洗い物を朝鮮式に、風呂場の床に二三枚並べて力任せに叩いていた。本人は一生懸命だったのに、やり方がまずいらしく伯母さんが遠くからすっ飛んできた。
「アニヤ、アニ。イロッケ(違う、違う、こうやって)」
「ああ、はい。分かりました」
伯母が身振り手振りで正しいやり方を教えてくれた。洗い物を床の上に厚く重ね、平べったい棒でパンパン叩く。そうやって汚れを落とすのだ。余り薄いと生地だけが傷んでしまうらしい。
三月の末といっても羅津は、東京からすれば真冬の冷え込みだ。おまけに台所は十畳ほどの広さがある。早朝は寒さに震えた。台所の隅には食器棚が二つ置いてあるが、調理台から離れていて、不便きわまりない。
台所の隣に子ども達の部屋と三星の部屋がくっついていた。煮炊き用のカマドの煙を、床下に這わすようにして床暖房の温突(オンドル)に利用する。煙の流れが良いように、火の焚口は、台所の床より八十センチほど低い。たたみ三畳くらいの広さで、コンクリート仕上げにしてある。そこへ降りて行って、火を焚き、料理を作るのだ。大きな釜が三つ並び、一つにはお湯を沸かしておく。床下収納のように蓋をする板が何枚かあるのだが、面倒なので開けっ放しにしてあり危険でもある。広い台所を上がったり下がったり、右に行ったり左に行ったりして、独楽鼠(こまねずみ)のように走り回るはめになった。
毎朝まだ暗い五時過ぎに起きてご飯をこしらえた。新学期の四月になると、太星と正子にはお弁当を持たせた。この二人を起こすのが、毎日の騒動だ。
「ほら、二人とも起きなさい。もう学校よ」
「正子ちゃん、遅刻するわよ。あらっ、五郎ちゃん、また寝てしまって」
一人をやっと起こすと、もう一人が寝てしまう。そんなやり取りをしているうちに、五郎(源五郎)の友達が呼びに来る。
「ゲンゴローウ~、学校行こう~」
独特な抑揚をつけて呼ぶのが笑いを誘う。
創始改名で朝鮮人は皆、元来の名前を変えさせられていた。姓はもともと林なので、呼び方だけをハヤシと替え、長男から源一郎、源二郎、源三郎で、源四郎はすでに亡くなっており、次が源五郎だった。
この頃、下の三人は部屋が一緒だったが、毎日、寝る場所が変わるので不思議に思った。おまけに必ずオネショをするので、布団を干すだけでも一仕事だった。
私は一番小さい吉子がするのだとばかり思っていたが、最近、吉子と昔話をしていた時、本当の事が分かった。「太星だった」のだ。目くらましのために、彼が寝る場所を毎日替えさせていたという。妹たちは、「お義姉さんに言ったら、ぶん殴るぞ」と脅されていたそうだ。
五十年ぶりに暴露された、笑い話である。
大家族の中で家事をしながら時間が過ぎていく。新婚らしい気分に浸る間もない忙しい日々であった。
「亡くなった母さんは、毎日この家を掃除して綺麗にしていたよ。この学生服も縫ったんだ」と利星が自慢げに太星の服を見せた。私はさすがにそこまではできないが、掃除だけは負けずにやろうと、毎日二、三時間かけて、家の中を一所懸命きれいにした。
五歳の吉子は男ばかりのところへ若い義姉が出来たのが嬉しいのか、四六時中私から離れなかった。一緒に掃除をし、雑巾がけもして、まるで金魚の糞のようにくっついて歩いた。夜になると自分の枕を持って来た。
「私も一緒に寝るんだ」
私達の布団に入って眠ってしまうと、利星が抱いていく。
朝になって起きるときょとんとした顔をした。
「私、お姉ちゃんのところに寝たのに、どうしてここにいるの。嫌だ、嫌だ……」
大きな声で駄々をこね、皆を笑わせた。
私が来て一、二週間経つと、「長く留守にも出来ないね、向こうにも孫がいるから」と伯母はそわそわし始めた。その伯母が夫に私を褒めてくれたらしい
「良い嫁が来たよ。何でも覚えるし、気が利くから心配は無いだろう。これで安心して帰れる」
私を認めてくれた最初の人といえる。言葉は通じなくても気心が知れるようになり、何かと頼りにしていたのに、私達の披露宴が済むと息子の家に帰ってしまった。
披露宴は家で開かれたが、銀行や商売関係の人々を四、五十人ほども招待した。町の中華店から料理人を呼び、沢山のご馳走を作ってもらった。
朝鮮の人は歌が上手で、興がのるとすぐに歌いだす。ましてや新郎新婦は必ず皆の前で歌わなくてはならない。万一、新婦が歌わないと新郎は足を縛られて皆から殴られる。その場の雰囲気でその事が何となく察せられた。
「このままでは歌わせられてしまう」と私は危機感を感じた。
「すみません、何だか気分が悪くなってきたので失礼します」と酔った振りをして先に部屋に入り、難を逃れた。天性の音痴だから、恥をかかなくてほっとした。
賑やかなのが好きな彼は、以前から人を集め、こんな大判振る舞いをしていたのだ。日本人との付き合いは少なかったが、朝鮮人の友達がしばしばやってきた。
羅津は人口約一万人位の新興都市であった。満州が建国され、清津港だけでは役割が不充分となり、第二の港町として栄え始めた。羅津駅から末広町までは歩いて二十分ぐらい。中心地には木造の新しい建築が立ち並んでいたが、周辺は区画整理されたままの空き地がそのまま残っていた。道路は広くて舗装されていたが、春も遠いその季節は荒涼とした印象が漂い、町はいつも静かであった。
世界でも二番目といわれるほど風の強い地方で、小さい子どもたちは大人について集団登校しないと、吹き飛ばされる危険があった。おまけに雨が少ないので、掃除をしても家の中がすぐに埃だらけとなり、気が沈んだ。末広町に住んでいるのは日本人ばかりで、夫のような朝鮮人は数えるほどしかいない。私が嫁に来た話は瞬く間に、町中の噂になったはずだ。けれども忙しくもあり、元来社交的でない私は、自分から他所へ出向く事は無く、街の事情にはまるで疎かった。
披露宴が終わって一週間もすると、夫は満州へ用事があると言って、一人で出掛けてしまった。私達の寝室は十畳の和室に二間の床の間があった。そこには亡くなったお父さんの等身大の肖像画が、掛け軸にしてかけてあり、新婚の部屋なのにいつも見られているようで、不気味だった。
「日本の女が何でこんな遠くまで嫁に来たのか」と、鋭い目つきで詰問されているような気がしてならなかった。
おまけに便所が遠くにあるため、夜中に一人で行くのが恐ろしかった。何かが出てきそうでゆっくり用を足す事もできない。夜の来るのが怖くてたまらなかった。
「早く帰ってきてくれないかしら」と夫の帰りが待ち遠しかった。
彼は私が夜中に厠に行くときも嫌な顔一つしないでついて来てくれた。まるで赤ちゃんをかわいがるように私を愛してくれた。二人だけでいるときはもちろん、人前でも自分の奥さんを平気で褒める。夫とはこんなにも妻を大事にするものだとは、想像もしていなかった。その分、喜びも大きかった。
何十年も経って、娘の恵子が訪問したとき利星がこう言ったそうだ。
「義姉さんのことは皆が褒めてた、可愛くて頭がいいって。日本人も朝鮮人も誰もがそう言ってた。兄さんもあの時は義姉さんだけだった。義姉さんだけを愛してたんだ。これは本当だよ」
面映いような褒め言葉だが、夫が傍目にも分かる愛妻家であったのは事実だろう。
「義姉さん、兄貴の出張が多くて済まないですね」と言って、私をよく映画館に連れて行ってくれた。大陸を舞台とした李香蘭の「支那の夜」などを見た記憶がある。必ず吉子を連れて見に行ったので、五郎、正子から、「吉子はいいな」と羨ましがられた。映画は学校で禁止されていたのだ。
四月になって中学へ行くはずの五郎が、もう一度六年生をやる事になった。正子は三年生になったが、吉子はまだ幼いのでやはり家にいた。
時々、汽車で一時間足らずの洪義という所から亡くなったお母さんの姉妹だという人たちが、ジャガイモやトウモロコシのふかした物を頭に載せて持って来た。
彼女達は初めて訪ねて来た時、いきなり裸足で台所に入って来た。雑巾で足の裏をパッパッと拭き、そのまま座敷に上がってきたのには驚いた。ゴム靴が配給だったので、腰に吊るしていた。そんなにまでして甥や姪たちに食べ物を持って来てくれたのだ。トウモロコシはモチモチして美味しく、皆で有難く頂いた。
夫は彼女達が帰る時は必ず、着物とかシャツとかをあげていた。彼がいない時は勝手に持っていくこともあり、これがこちら風なのかなと少し当惑した。
ある日、利星に連れられて、亡くなった姑の兄が住む洪義へ行ってみた。「日本」と満州とソ連の、三つの国境線が集まった紛争地帯である。小さな家が多かったが、銃痕の跡がどの家の壁にも点々と残っていた。ここで数年前に戦いがあったそうだ。その伯父たちも随分恐ろしい思いをしたことだろう。
土間に中棚があり、棒に麻をぐるぐると巻いたのがずらっと並べてあった。夜になるとこれに火をつけて、灯りにするという。小さな部屋が二つだけで土間には牛も飼っている。部屋の中は煤けて真っ黒だった。当然、電気などはない。「日本」にもまだこんな所があるのかと、何となく悲しかった。
「お母さん、そこが本当に日本だと思ったの? 朝鮮は日本から植民地支配されてるって、考えなかった?」
朝鮮の地を「日本」と言う私の話を聞いて、戦後の教育を受けた長女は呆れるが、当時の私は国から言われるとおり「朝鮮は日本の領土」と信じきっていた。
教育とは恐ろしいものだ。
五月に入ってからはいよいよ食べるものが無くなってきた。ここは朝鮮でも最北にあたり、もともと食料があまり取れない所だ。夫の友達の印刷屋の奥さん達四人くらいで、洪義近くまでジャガイモを買出しに行く事にした。知り合いの知り会いという風に、伝を探してやっとの思いで、小さいリュック一杯のジャガイモを手に入れた。
汽車の時刻に合わせて駅の近くまでやって来ると、リュックの紐が切れてジャガイモがころころと転がりだした。慌てた私は大騒ぎして、かき集めて、詰め込んだ。リュックを抱えて、発車のベルが鳴り出した駅に走り込んだ。
見るとお巡りさんがいる。目と目が合ってしまった。逃げようもない、どうしよう。気の優しい人だったのだろう。一人遅れた若い女を見て、「早く行け」というように、手で合図してくれた。私は軽く会釈をすると、動き始めた汽車に飛び乗った。心の中で「ありがとう」と感謝しながら、大事な大事な食料を抱きかかえた。
汽車に揺れながら、「東京でも買い出しで苦労したっけ」と、昭男のことを思い出していた。その時も、小さい弟の昭男を連れて行った。やっとの思いで売ってもらった食料をリュックに背負い、多摩川の土手道を戻る途中だった。一人の巡査がこっちに向かってくるではないか。慌ててリュックを道端にそっと転げ落としたのに、弟が大きな声は張り上げた。
「おねえちゃん、大変! リュックが下におっこちたよ」
困った私は、真っ赤になってもじもじしていた。
きっとそのお巡りさんも内心、苦笑いしたことだろう。
「いけないのは知ってるね。返しに行きなさい」とだけ言った。
「はい、分かりました。申し訳ありません」
素直に謝って、言われた通り道を引き返した。もちろん、夕方になって又もらいに行ったが。あの時代はどこでも食べるのに必死だった。
それなのに夫の家は泊り客が絶えなかった。羅津と新潟を船で往来する、取引関係の人々が必ず立ち寄った。
「さあ、遠慮なく泊っていきなさい」と気楽に言う林に、誰もが喜んでやって来る。
ある時は十人位も連れて来て、全員が二、三日泊っていった。食糧がないのに、やりくりする私にはつらい事だった。
我が家が自転車屋をしていたので、魚屋のおじさんはタイヤが欲しくて、配給の時に優遇してくれた。私が店の前に並んでいると、「林さん、林さん」と手招きしてバケツ一杯ぐらいも持たせてくれる。殆ど鯖だったが、煮たり焼いたりして何とかおかずにしたが、野菜だけはどうにもならなかった。亡くなったお母さんが漬けていたキムチを大事に食べたが、それも五月になるとさすがに酸っぱくなり、味が悪くて食べられたものではない。三星が時々友達から少し野菜をもらって来たりもしたが、それも微々たるものだ。家族も多く客も多かった中で、どうやり繰りしていたのか、今考えてもよく分からない。
いつも「皆をどう食べさせるか」、ただ、それだけを考えて生きていたように思う。
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