家族海峡-3

「家族海峡」

第一章 ”第1章 運命の人”

三 朝鮮の地
釜山は朝鮮最大の港町で山の中腹まで家がぎっしり立ち並んでいた。初めて目にした朝鮮の地は、山も道路も赤茶けて見える。冬ということもあるだろうが、緑が少なく寒々とした印象を受ける。湿潤な日本とは違う乾燥した大陸につながっているのだと実感する。
上陸して第一に驚いたのは、強烈な臭いだ。埃っぽい町を歩いても電車に乗っても、にんにくの臭いが鼻をつく。吐きそうになるのを必死で我慢した。
朝鮮の人々は男も女も白っぽい綿の服を着ている。町は喧騒に満ち溢れ、全く理解できない言葉でまくし立てている。まるで全員が喧嘩をしているようだ。体も骨太でがっしりしている。彼らの逞しさと荒っぽさに圧倒される。
「このような人々の中で生きて行くのだ」と正直、先が思いやられた。
 まずは電車に乗って、夫の知り会いの家に向かった。その家では直ぐに食事を準備してくれた。白いご飯が出てとてもおいしく頂いた。昨夜のちぎれたうどん以来、何も食べていなかったのだから当然だ。その上、お米が貴重な時代だというのに、親切にもおにぎりまで作ってくれた。それを大事に持って、私達は夜十時頃新義州行きの夜行列車に乗り込んだ。三等車はほとんど現地の人で、二等は日本人ばかりだった。
 私達の席の近くに母娘と見える二人連れの女性達が座って居た。出発するとまもなく若い方が重箱を開け、早速に食事を始めた。夫はそれを見ると、私におにぎりを出させ、それを持って近付いた。
「おにぎりを召し上がりませんか」とまず勧めた。
「ありがとうございます。こちらで一緒に食べませんか」と誘ってくれ、豪華な食事となった。夫は誰とでもすぐに親しくなれる特技があるらしく、話に花が咲いた。
娘と思った女性は大連にいる軍人へ嫁ぐとところだという。一緒に居たのは伯母だった。私達は身の上話を聞きながら、卵焼きやら焼き魚やら、大変なご馳走をうまうまと大分頂いてしまった。
 京城駅に到着したのは朝七時頃で、既に明るくなっており、かなりの人々で賑わっていた。朝鮮第一の駅というが、私の目には大阪や東京に比べると、小さかった随分小さく見える。この駅は中央ドーム天井のステンドグラスは、韓国の国花である無窮花(ムグンファ)に変わったが、今もソウル駅の旧舎として、当時の姿で残っている。
二階の駅舎食堂に上がって食事をしたが、切符制ではないのにビックリした。高野豆腐と焼きうどんだったと思う。とても美味しくて、お代わりも大丈夫といわれて頂いた。物が豊富なことが嬉しくて、何となく頼もしかった。
 当時、京城で一番高級だといわれていた半島ホテルの四一二号室に泊まった。朝鮮に来て初めてのホテルなので部屋番号までよく覚えている。
そこからほど近い乙支路四丁目を入った所に、夫の工場はあった。想像していたのより小規模で、二百坪位の場所に百五十人位の職工が、手作業で仕事をしていた。彼の話から想像していたことに比べ、大分お粗末な木工工場のようなものだった。
 一泊した翌日、夫の従妹がホテルに訪ねて来た。雄基(ウンギ)に住む伯父の長女、林金子だった。軍人に嫁いでいて、私より一つ年下だったが、既に四人の子持ちである。金子の夫も朝鮮人だが、日本軍の曹長だった。金子の妹である美子と、金子の夫の妹が女学校に入学するために一人千円ずつ必要だという。随分高いと思ったら、どうやら裏口入学するためのお金らしい。
「納付の期日まで時間が無いらしい。会社には生憎、余裕の金が無いから貸してやって欲しい」と夫は私に頼んだ。
「家に帰ったら間違いなく、すぐ返すから」と言う夫の言葉を信じて、父母からもらった二千円全額を貸した。後で聞けば雄基で試験に落ちてしまったので、京城の学校を受けたのだと言う。
その後、二カ月経って金子の夫が千円だけ持ってきた。私が貸した金は嫁入り道具の準備金だった。羅津では日本に引き上げる人がいて、家具を売るという。返してもらったお金で箪笥と鏡台を買った。箪笥は一間以上幅があり、大きくて立派だったが、鏡台は青っぽいガラスで薄気味悪かった。顔が病人みたいに写るのが嫌だったので、何時も布を掛け、ほとんど使わなかった。
結局残りの千円は六十年を過ぎた今も返してもらっていない。千円で二十五坪の家が買える時代だったから、随分な損だった。
向こうへ行って得をした事は何だっただろうか? 何も無いような気がする……。
これが私の第一の失敗だった。

  二十四日の午後、羅津へ向かう汽車に乗った。しょっちゅう往来しているらしい夫に、車掌が何人も挨拶をしにきた。夫は会社への配給だという細長い丸棒みたいなお餅(トック)を出して、「すまないが焼いてください」と頼んだ。大分経って若い車掌さんがアツアツの揚げたての餅にお砂糖をたっぷりまぶしたのを持ってきてくれた。ビックリ仰天した。
「さあ、食べてごらん。朝鮮のお餅だよ」
日本では、ヤミで一斤三百円もする砂糖をふんだんにかけてくれたので、また一段と夫の手腕に信頼を寄せてしまった。
車中で一夜を明かしたのに、目的地はまだだという。清津を過ぎても汽車は進む。会寧を過ぎ、圖門という満州の入り口である駅まで北上すると、今度は南に下がり、ぐるっと遠回りして夕方やっと羅津に着いた。
改札口の前には大勢の人びとがいて、私を待っていた。二十人ほど次々と挨拶をして歓迎してくれたが、言葉が通じない私は笑顔でお辞儀を繰り返すばかりだった。魚屋を営んでる中川の伯父さん夫婦、体の大きい顔に白斑のある怖そうなお婆さん、みな遠い親戚だそうだ。続いて利星、三星、太星、正子、吉子の弟妹を紹介されて、私は呆然としてしまった。昨年の暮れ、彼に会った時には、うかつにも弟妹の年齢を聞いていなかったからだ。
「二、三歳の差とすれば、一番下は十五歳位かしらね」とのん気に考えていたのだ。
一番下の妹は何と五歳になったばかりで、その上は八歳だった。彼が年を言わなかった筈だ。誰でもこれでは逃げただろう。後妻に嫁ぐのと同じである。
「これは大変なことになった」
詐欺結婚ではないかと心の中で驚愕したが、いまさら逃げ帰れる距離ではない。
私は忘れてしまったが、駆け寄ってきた吉子を私が抱き上げるのを見て、夫は「これなら大丈夫」と安心したらしい。
タクシーで中心地である末広町に行った。まず寄ったのは商工会議所に貸してある家で、利星の所有となっていた。
「二十五日は日がよくないので、夜中の十二時を過ぎるまでここで待っていて下さい。それから家に行きましょう」と利星に言われるまま商工会議所に入った。
その家には夫の会社の日本人社員である、柳田さんの奥さんが留守番として住んでいた。五十がらみのどこか小料理屋のおかみ風だが、人は良さそうだ。お茶を入れて持てなしてくれた。夫の方は京城に単身赴任していた。
 十二時を過ぎてから、歩いて三分くらいの所へ移動した。闇の中に、人を威圧するように大きな日本家屋が建っていた。とうとう婚家に着いたのだ。
三月二十六日の夜半だった。

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<家族海峡 目次>
はじめに

第1章 運命の人
1 出会い
2 結婚
3 朝鮮の地
4 大家族
5 満州旅行
6 妊娠と叔父の召集

第2章 日本の敗戦
7 ソ連侵攻
8 逃避行
9 夫の生い立ち
10 38度線
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