家族海峡-2

「家族海峡」

第一章 ”第1章 運命の人”

二 結婚
新しい年を迎え、十日近くになっても、彼の会社の呉野専務は、電話を一度よこしただけで、なかなか現れなかった。大分後に知ったのだが、その専務は彼を自分の娘と結婚させたくて、我が家に来るのを延ばし延ばしにしていたらしい。
父と叔父の間で、私の結婚を巡って多少だがいざこざが起こっていた。
父は「最初から約束をきちんと履行しないのでは、将来が疑われる」と言い、
叔父は「紹介はしたが、まだ彼の家庭状況を調査しておらず、保障できない」と答えた。それを聞いた父が、「では、何で紹介したんだ、無責任じゃないか」と怒り、もめ始めたのだった。
 これらは全部手紙だったので、やりとりに随分時間がかかった。朝鮮に手紙が着くのに一週間。返事をもらうまでに早くても二週間はかかった。
そんな中、やっと専務が結納金と会社からの祝い金だとして、六千円を持って訪ねて来た。結納金は二千円位という時代に破格の金額だった。父の疑いも少し晴れたのか、身元調査の話もうやむやのまま、結婚は決まってしまった。
私にとって朝鮮は、全くの未知の世界であり、たった一人の知り会いである叔父は、彼のいる所からかなり離れて住んでいた。今考えてみれば、知る人は誰もいない、習慣も違う、そんな遠い所へよくも行く気になったものだと、自分の無謀さにあきれて物も言えない。
嫁入りのための着物は少しずつ母が準備してくれていたが、布団を準備するのは容易ではなかった。糸までも割り当て制で、決められた分しか配給されないためだ。父が銘仙の産地である秩父で仕事をしていたので、織り元に頼み込んでヤミで生地を買い、腹に巻いて帰って来た。綿もまた、知り合いを頼って手に入れた。綿はかさ張るので、母と二人で夜明けに家を出て、電車の込まない七時ごろには家に戻った。貴重な材料を使って、自分で敷布団四枚、掛け布団四枚の二組をこしらえた。 一月二十九日、彼から電報が入った。不明瞭な電文で、理解しずらかったが、「ハハシス」の部分は判断できた。母親が急病で亡くなったという知らせだった。 「これは大変な事になった。五人の弟妹は、年が幾つなのか分からないけれど、お母さんがいなくなったら長男の彼がみんなの面倒をみるのだろうか?」と、心配ばかりが先に立つ。
その後、彼から手紙は来ても、結婚後の生活については何も書いてない。あまりにも下手くそな字に驚くばかりで、文章も要領を得ず、不安が広がった。
暗いニュースばかりが伝わる中、空襲はますます激しくなり、毎日のように米軍のB29が飛来した。そのたびに父は、「結婚するまでは親の責任だ。お前は怪我をしてはいかん。早く入れ」と、一番先に私を防空壕に入れて、かばってくれた。
すぐ下の妹の歳子は女学校三年だったが、通学といっても殆ど集団で工場へ行って働くだけだった。年頃の歳子は、信じられないという顔つきで、時々聞いた。
「お姉さん、あんなハゲの人が好きなの? 私なら絶対嫌だわ」
若い丈夫な男は戦場へ駆り立てられ、病気か、弱い男しか残っておらず、適齢期の娘を持つ親にとって、結婚は心配の種であった。相手を無事に見つけたとしても、嫁にやった後、戦死されたら未亡人となる。そうでなければ病弱な夫を持って一生苦労するであろうし、どの親も悩みが尽きなかっただろう。何としても心許ない将来であった。
私の学友にも結婚して三日目に、夫に召集令状が出て、戦地に連れて行かれたまま戦死してしまった人がいる。三年間、嫁ぎ先の親の面倒を見た後に、実家に戻った。自立して独りで暮らしていたが、再婚もせずに五十歳前に亡くなった。海軍大佐の娘だった。こんな話は珍しくもなく、どこででもよく耳にした。

日毎、戦況が悪化していくので、一日も早く結婚をと父に促され、式の日取りを三月十三日に定めた。
彼が上京したのは三月十一日の朝だった。
その前夜には、あの恐ろしい東京大空襲があったのだ。
夜中の十一時ごろから武蔵小山の上空を、東へ向う飛行機が爆音をたてて通過し始めた。B29の飛行編隊が、波が押し寄せるように一定の時間を置いて、飛来する。ブワアーンという上空音が遠ざかり、「これで終わりか」と思うと、またやって来る。目的地は別にあるようだが、私達も生きた心地がしなかった。
全て通り過ぎたと思われる頃、誰かが外で叫んだ。
「燃えてるぞ! 深川方面がやられてる!」
焼夷弾が投下され、東の空が真っ赤に染まっている。家も人々も、火の海に焼き尽くされているに違いない。外は新聞が読めるほど明るい。時々、バーンバーンと撃ち返す高射砲の音も聞こえてくるが、物量作戦の前には何の効果も無かっただろう。この世の終わりかと思うほど恐ろしかった。
後の資料によると、三百機の爆撃機により一夜にして、江東区方面で十万にも及ぶ人々の命が失われ、被災者は百万人を越えたという。その殆どが女、子ども、老人などの非戦闘員であった。彼らの死に対して一体誰が責任を取るのだろう。
いつの時代も戦争は一番弱い者が、最大の犠牲者となるのだ。
その夜は防空壕を出たり入ったりして明け方まで眠ることができなかった。
恐怖の覚めやらぬ朝に、彼は軽装の国民服で現れた。
「電車が動かなかったので、品川から歩いてやって来ました」と淡々と言う。
昼間はまたどこかに出かけ、夜になると戻ってきた。山西の叔父も朝鮮からやって来てし、二人は二階で泊まった。
十二日の夕方、薪がないため風呂も焚けず、父と彼が風呂屋に行くことにしたと言う。風邪を引いて声が良く出なかった私も、母と一緒に行った。
結婚式の当日になった。良く晴れていたが、冷たい風が吹く寒い一日だった。
近くの八幡神社で午前十一時ごろ式が行われた。彼は国民服、私は縞のお召しで作ったモンペ姿だった。彼は羽織袴姿を望んだので、父のを着せようかとも思ったが、私は振袖など着られない。つりあわないと思ってやめた。結婚式とはいえ、派手な格好などできる雰囲気ではなかった。
参列者は両親と近所の歯科医、このご夫婦には形だけだったが仲人を頼んだ。それから山西の叔父だ。母の一番下の弟で、名を又一という。子だくさんのところに生まれたので、「又も生まれた」という意味でつけたらしい。本人はこの名前をひどく嫌い、康之と称していた。親戚はこの叔父だけの寂しい結婚式だったが、空襲警報が無かっただけでも幸いだった。三三九度の杯を交わす時、彼があまりにも勢いよく飲むので、全部飲んでしまうのではないかと心配したが、ちゃんと残してくれていて無事、式を終えた。
駅前の写真館から出張してもらい記念撮影もした。百円を前金で払ったが、三月の末頃に父母が写真を受け取りに行くと、写真館は空爆で燃えてしまい、行方も分からなくなっていたという。仕方ないので後に同じ姿でもう一度、京城で写真を撮り直した。
四月に入ると五反田から武蔵小山一帯にかけて本格的な空襲があり、我が家も燃えてしまった。私は朝鮮にいても家族が恋しくて、実家に帰る夢をしばしば見た。燃えた頃の夢は近くまでは戻るのに、何故か家の中に入れない。夢で知らせてくれたのだろうか。父母達はしばらく知り合いの家を転々としたが、六月頃には和歌山に引き揚げた。その後は父の怪我のことなどもあり、二度と東京には戻らなかった。

結婚式の日の夕方からは近所の人々二十人位を集めて披露宴が行われた。
秩父で鶏やら肉をヤミで求め、これもヤミで買った野菜で、精一杯のご馳走を準備した。手作りの料理だが、酒もあり賑やかであった。得難い砂糖は、一斤三百円もの大金を払った。大学生が五十円ぐらいの月給のときである。「金」と同じ位高いものだった。
親というのは有難いものだとつくづく思った。
この夜は私達の結婚にいい顔をしなかった、横須賀の叔父も一応祝いに来てくれたのでほっとした。山西の叔父の、二つ年上の兄である。この叔父は海軍基地のある横須賀で、海軍省の土木工事をやっていた。下請けに朝鮮人がいて、彼らの荒い気質を良く知っていたので、この結婚に反対したのだった。
みんなから祝い酒を勧められて早くものびてしまい、横になって大いびきをかいている彼を見て、「割に可愛い顔をしているではないか。実直そうだし……。真っ直ぐいって欲しいね」と自分自身を納得させるように、姉である母に洩らしていた。
 その日は、真冬のような寒さで一日中風が吹き荒れた。今考えると、まるで私達の波乱に満ちた将来を象徴するかのようだったが、未来は誰にも見えない。
私は彼を信じ、強い愛を覚えて、花嫁となった。
その夜は空襲も無かった。
「こんなだったらどこかへ旅行したら良かったのに」と誰もが思った。
新婚の第一夜は彼のいびきと初夜とで、私は朝まで殆ど眠れなかった。男女のことなど誰からも何も聞かされておらず、全くの無知であった。彼は優しかったが、夫婦になるのはこういう事なのかと初めて知った。
「すごいいびきでB29がまた、集団で来たかと思った。あんな人と一生過ごすのかと思うと、心配で涙が出る」と母は案じた。
口数の少ない母だが、いろいろと心配が多かったと思う。やっと決まった娘の嫁ぎ先がこんなに遠くては、二度と会えぬ覚悟で送り出す気持ちだったろう。
切符を買うのもままならない時代だったが、彼は実情を見てもらおうと、羅津迄、父や叔父らを連れて行くため、二等の往復切符を五人分用意していた。しかし、国内の旅行も難しくなり、結局、全て無駄になってしまった。
十五日の夜行列車で出発する予定にしていた。しかし、ここで別れたら、今生の別れとなるかもしれないと、母と私は泣き崩れてしまい、果てしなく涙が溢れた。
父は私を見送りがてら、疎開している妹や弟の安否を確かめるためもあって、大阪まで同行してくれることになっていたが、涙もろい父は私の横で泣いていた。
さすがの彼も、「明日の朝に出よう」と言ってくれた。
 十六日の朝の出発も又、涙、涙であった。
「嫌だ。僕もお姉ちゃんと一緒に行く」
五歳の昭男は駄々をこねて、大泣きした。私を母よりも慕い、どこにでも一緒に連れて出かけていたので、大きな不安を感じたのだろう。その出発の朝が、この弟との永遠の別れになるなど、その時には露ほどにも思わなかった。昭男は大きな目をクリクリさせて、何にでも興味を示す利発な子だった。今でも私の心の中には、あの子が幼い日の姿のままでいる。
 彼が予約していたにもかかわらず京都のホテルは満員という。代わりに特別準備してくれたのは皇族が泊まる所とかで、入るなりびっくりした。そこは応接室らしく、テーブルが幾つも並べられた大きな大きな部屋だった。旅慣れていない私は度肝を抜かれた。次が浴室、洗面室、手洗い、どれも人生で初めて見る豪華なものばかり。寝室はベッドが二つあり、この部屋も広々としている。ベッドなどと縁の無かった私は、唯々怖気付き、うろたえるばかりだった。父は小さな部屋だったので、娘の私がいい部屋に寝るとはと申し訳なく、心苦しかった。
二泊したが、京都でも夜中の二時ごろ空襲警報が鳴った。宿泊していた者も全員、地下壕へ避難して時間を過ごしたが、幸い攻撃はなかった。
 神戸地方がやられたという。和歌山方面も汽車が不通となっていた。父は疎開している妹や弟に会うこともできず、止むなく京都から東京へ引き返すこととなった。
 車中で父と最後の別れを惜しんだ。
「喜多子を頼みますよ、本当に娘をよろしくお願いしますよ」
大粒の涙を流しながら、何度も何度も、繰り返し頭を下げていた父だった。
 父は東へ、娘は西へ。それぞれの目的地に向けて汽車は出発した。
「いよいよ頼れるのは彼だけだ。これからはどこまでもこの人と生きていくのだ」
私は悲しみの中にも結婚への思いを新たにしていた。
 神戸は空爆で大きな被害を受けていた。線路の近くやあちこちでまだ火が燻ぶっており、残り火がちょろちょろ燃えていた。
神戸から先の西に行くのは始めてだった。福山という所で降りた。取引先という会社の事務所へまず寄った。街中をぶらついてから最後に瀬戸物屋へ入った。
「これは立派な皿だ。包んでください」
「どうして三枚も買うの。重たくない?」
「家には客が多いが、こんな大きい皿はないから」と彼は言う。
そんなに人がたくさん来る家なのかなと私は軽く受け止めていた。
その晩泊まった小さな汚い旅館は、前夜のホテルとは天と地くらいの差があった。
翌朝になると、すぐ隣の工場の若い工員達が大勢窓から覗き込む。
「新婚みたいだよ」と冷やかす声までする。私は恥かしくて彼の後ろに身を隠した。
 前夜も空襲警報は鳴った。彼は大事な大皿を抱えてウロウロした。余りの重さに返す事にした。買った店に持っていって、おじさんに頼み込んだ。
「とても重たくて、朝鮮の北までは持っていけないので、残念ですが返品します」
というと、ありがたいことに店主はたいした文句も言わずに引き取ってくれた。
夜八時頃の夜行列車に乗り、下関の彼の定宿へ着いたのは夜中の十二時過ぎだった。私達はお腹が空ききっていた。
「何か食べる物をお願いできますか?」
「こんな時間じゃね。まともな食事なんか、できませんよ」
おばさんは、残ったうどんをかき集めて、二人分持って来てくれた。汁の中に申し訳程度の、切れ切れのうどんが入っているだけなのに、彼はチップを上げていた。
 釜山への出航は、いつもは朝の八時だが、その日はもっと早まって六時に変更という。乗船する者は四時までに埠頭に行かなければならなかった。
おちおち眠る間もなく四時に駆けつけると、既に何百人も集まっている。一週間も乗れずに待っている人もいるそうで、一体どうなることかと案じられた。
 彼はやおらオーバーを脱ぎ、「これをちょっと持っててくれ」と私に持たせた。国民服の左腕につけていた横長の日の丸のような社章を、人々に良く見えるようにつけ直すと、いかにも整理担当者のごとく、大きな声で叫び出した。
「さあ皆さん、並んで下さい。さあ早く」
人々が並び出した。四、五十人位並んだところで、私に手招きをする。
「あなたはここに並んで、並んで」と割り込ませた。
前の方が動き出すと、いつの間にか私の横に平然と紛れ込んでいた。大勢の人々を尻目に、待たずに乗船できた。しかし、一等、二等、三等の区別も無く、入り乱れ、早い者勝ちだ。座っていなければ、またすぐ席は取られてしまう有様だった。そんな時代でも大陸に向かいたいという人々がたくさんいたのだ。ほとんどが日本の商売人の男達で、私のような若い女は少なかった。
 ともかく彼の機智にすっかり感心し、信頼を深くした。
「しっかりした男と結婚した」と新妻らしい喜びに浸った。
 新婚の私達を乗せて船は出発したが、一時間後に下関が初めて空爆にあった。甲板から見下ろすと、海には機雷があちらこちらに浮いている。一つ間違えれば船は沈没の憂き目にも遭うのだ。それらを避けて慎重に航行するために、いつもは六時間かかるところを八時間くらいかけて、やっと二十日の午後二時過ぎに釜山にたどり着いた。
 不思議なことに行く所、行く所、まるで私達を狙っているかのように空爆にあった。よくも無事に渡れたものだと神に感謝した。

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<家族海峡 目次>
はじめに

第1章 運命の人
1 出会い
2 結婚
3 朝鮮の地
4 大家族
5 満州旅行
6 妊娠と叔父の召集

第2章 日本の敗戦
7 ソ連侵攻
8 逃避行
9 夫の生い立ち
10 38度線
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