「家族海峡」
第一章 ”第1章 運命の人”
一 出会い
東京の空襲も激しくなり、生活必需品も手に入りにくくなってきた一九四四年(昭和十九年)十二月十九日。何の前触れもなしに、突然我が家を訪ねてきた一人の朝鮮人青年の出現で、私の数奇な運命が幕を開いた。
当時私は、二十四歳。東京の武蔵小山に両親と五人の弟妹のうちの三人、合わせて六人で住んでおり、弟妹二人は両親の故郷である和歌山に疎開していた。
その日、父は埼玉県の秩父に伐採の仕事で不在だった。私は二階で、母の黒の紋付羽織を自分用に縫い直していた。
「ごめんください」
下から声がするので降りていくと、玄関には見知らぬ男が立っていた。
国民帽を被り、足にはゲートルを巻いていた。襟にラッコの毛皮のついたこげ茶色のオーバーを着ており四十近くに見えた。
「一体、どこのおじさんかしら」と、内心不審に思った。
「どちら様ですか」
「朝鮮から来た林と申します」と、何のてらいも無くにこやかに答えるので、母が座敷に招きいれた。私はお茶だけ出して、また二階に上がった。しばらくもしないで客は帰った。
「喜多子、ちょっと」
普段、感情を表に出さない母が、少し当惑気味に私を呼んだ。
「山西の叔父さんから紹介されたそうよ。お嫁さんを探しているのですって。
でも、随分年取って見えるわね」と、その男が持参した手紙を差し出した。
叔父は母の末弟だ。闊達な人で和歌山の周参見(すさみ)で旅館をしているが、片田舎にいるのは面白くないと、仕事は叔母に任せたまま何年か前に朝鮮に渡ってしまった。港町の元山にある湯沢商会とかいう会社で働いていた。叔父からは時々手紙が来ていた。
八つ年上の叔父は、私の兄代わりだった。私は叔父の青年らしい話を聞くのが好きで、上京した折には、よく一緒に出かけた。東京に住んでいながら新宿さえもろくに知らない私を、かえって案内してくれたものである。
今思えば歌舞伎町あたりだろう、初めて目にする裏通りを珍しげに眺める私に
「ここは、昔の女郎屋があった所だよ」と教えてくれる。
「男はこんな所にも出入りするんだ。困った事だけどね」とも付け加えた。
都会で育ったとはいえ、戦時中でもあり、異性について考えてもみなかった。当時は若い男女が一緒に歩いているだけで、非国民と言われたのだ。今の人からすれば「バカみたい」と笑われるけれど、男性と付き合った経験も無い私は、恋愛の事など何も知らずに育っていた。
その夜、帰宅した父は、母に訊ねた。
「それで、その人のホテルはどこなんだ」
「聞いてません」
「娘の縁談のために遠いところから来たっていうのに、何で聞いておかないのだ」
温厚な父が珍しく叱った。
翌々日、彼から電話がかかってきた。父の在宅を確かめて、二度目の訪問にやって来た。彼はまず自分の状況について話し出した。
「父は末の妹が生まれる前に亡くなり、私は長男で弟妹が五人います。母と弟妹達は北の羅津にいますが、京城に本社があるので、結婚したら妻と二人でそこに住むつもりです。咸興に五千坪の工場、江界に製材所、羅津は自宅が百坪ほどで事務所も兼ねています。羅津の商工会議所に貸している家は、四十坪ほどの二階屋で、日本人の社員に管理を兼ねて住まわせています。父の代からの自転車屋もありますが、今は若い者に任せています。大体以上の様です。自分は朝鮮人で、国民学校だけしか出ていませんが、満鉄の指定商人にされるまでに努力しました」と、堂々とよどみなく説明する。
顔は整っているが、頭の前部に丸く少し毛髪が残るだけの、つまり若禿げだ。そのせいもあって、二十九歳にしては老けて見える。その分、落ち着いた信頼のできる人物のように思えた。
「真面目で母親を大事にして、弟妹の面倒も見ている、なかなか仕事熱心な男だな」
私は内心、すっかり感心してしまった。
彼は初対面の父に唐突に切り出した。
「私は合格ですか? 不合格ですか? こんな男ですが、娘さんを私に下さいませんか。大事にして、決して苦労はさせないつもりです」
しばらく黙って考えていた父は、やおら私に向かって聞いた。
「お前はどういうつもりだ。よく考えて答えなさい」
それまで横で大人しく座っていた私だが、どういう風の吹きまわしか大胆な言葉が口からついて出た。
「ご両親が許して下さるなら、お嫁に行ってもいいと思います」
自分でも驚くほど、あっさりと承諾してしまったのだ。
それまで周囲に朝鮮人は一人もおらず、話をする機会もなかった。戦争も激しくなる中で、「内鮮一体」とかいう言葉は、たびたび耳にはしていたが、「日韓併合」以来の「同じ一つの国」という意味合いぐらいにしか認識していなかった。
家では関東大震災時の朝鮮人への弾圧、虐殺のことなども話題に上らず、社会情勢に疎かった。朝鮮人について無関心だったので、反感も蔑視も無い白紙の状態だったともいえるが、歴史に関心を持ったり、考えることもせず全くの無知だったともいえる。
彼は私の返事に、大喜びで感謝した。
「ありがとうございます。早速ですが、今まで交際していた訳でも無いし、私もすぐ帰鮮するので、お嬢さんと二人でどこかへ行って来てもいいでしょうか」
父に外出の許可をもらい、連れて行かれたのは銀座だった。その頃はさすがの銀座も食べる所も何もなく、やっと「森永パーラー」に入りジュースか何かを頼んだように思う。四丁目から松屋を過ぎ、伊東屋辺りまでぶらぶら歩いた。
「ああ、ここに占いをする所があるね。私達の将来をちょっとみてもらいましょう」
私が答える間も与えず、路地の奥にあった占い師の店にさっさと入っていった。
「二人の間は大変うまくいきますが、あなた方の一生は山の中の一軒家です。暗闇に見える灯りを目当てに、旅人が大勢訪ねて来ます。けれども、世話になって土産を貰って旅立ってしまうばかりで、そんな人達から恩恵は受けられません」と、年配の占い師から言い渡された。
こんなにきっぱり断言されれば、頭の働く女であったら、この結婚をもう一度、考え直したであろう。残念ながら親の庇護のもと、苦労知らずに育った私は「人から頼られる位ならまあいいではないか」と思ってしまった。
夕方、彼は品川駅前にあった京浜ホテルへ私を案内した。上京した時に定宿として利用しているそうだ。ベッドのある比較的大きな部屋だった。彼の会社の監査役をしているという、市川在住の海軍少将某が描いた達磨の色紙を、大事そうに見せてくれた。当時、軍人といえば泣く子も黙る時代。そんな偉い人を使っているのかと、また妙に感心してしまった。
そこへ突然、臨検の刑事が入ってきた。彼は落ち着いた態度で名刺を見せ、先の色紙まで見せたので、検査は無事に済み刑事は出て行った。私は初めての臨検の上、男とホテルにいた所へ来たので、心臓が飛び出すほどびっくりした。慌てて挨拶もそこそこに、部屋を飛び出した。品川駅に着いた時、手袋を片方忘れてきたのに気が付いた。すぐに引き返したが、フロントで、彼はホテルの風呂へ行ったと言われた。風呂場の前まで行くと、中から男と女の声がする。どうも混浴らしい。またもや仰天した私は、そのまま家へ帰ってしまった。
次の日、父に目黒区にある銀行まで使いに出された。用事をすませた足で、昼近く彼の泊まっているホテルを訪ねた。幸い、彼はまだ部屋にいた。
「今日は会えないと思っていたのに、来てくれて嬉しいなあ」
素直に喜んでくれたが、その日は手袋を受け取っただけですぐ別れた。
その何日後、彼は再び、父に会いにやって来た。結婚の約束をもう一度、確かめるためだ。
「正月早々、専務が東京に来る用務があるのでその時、結納金を持たせます」と約束して、朝鮮に戻って行った。
私達の見合いの数日はあっけなく終わった。
両親からは、後から残念そうにたしなめられた。
「即答等を求められても、『後で父母と相談してお答えします』と言うべきであった」
手紙一通だけで紹介された男に娘をやるのは、さすがに不安であったのだろう。
この時、この結婚が自分にどんな運命をもたらすのか分かっていたら、決して選択しなかっただろう。しかし、不覚にも私自身が決めた己の道なので、誰も恨む事はできない。若気の至りであった。
旗色の悪い戦局の中でその年は暮れ、敗戦の年である昭和二十年を迎えることになる。しかし、大東亜戦争の終焉が目前に迫っているとは、私達庶民は想像さえもできなかった。
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